雑談 7/20

日記

最近、小説の続きをあまり書けていない。新しいのにも手を出したわりに、そっちもほったらかしている。これはあまりよろしくない。何かを生み出さなければ、という焦燥感のようなものがある。

テスト期間だというのにYouTubeとネトフリばかり観ている。とんだスマホ依存者だ。最近、初めてエヴァンゲリオンという作品に触れた。詳しい感想は別の記事で書くけど、すごいものに手を出してしまったなというのが正直な感想。観たのは1995年の新世紀エヴァンゲリオンっていうアニメ26話分だけど、それだけでは終わらなくて、映画とか、他にもいろいろあるみたいじゃないですか。アニメは考察の余地を残して終わるので、それの消化もしなくちゃならない。世間のみんなが推しの子だ、アイドルだと言ってるときに私は30年近く古いアニメを観ていると思うとちょっと笑える。ちなみに『推しの子』は観てません。なんで世間でそんなにブームなのかよくわからん。

古いアニメなのに面白い、やるじゃん、と思ってしまった自分(何様だよ)がほんとに嫌になった。面白い作品というのは、画質や技術で魅せてくるんじゃない。ストーリー、設定、キャラクターが面白く、作り込まれた世界観が良いのに。古いからといって敬遠して積極的に観てこなかったことは反省すべきだと思った。現代に生きているからといって、現代のクリエイターが昔の良い作品をすべて余すところなく吸収して、常にそれを超える作品を生み出しているわけじゃない事は、私自身が一番わかってるはずなのに。過去作品に影響はされるけれど、エンタメは必ずしも歴史の積み重ねではない。むしろ、現代に行くにつれて二番煎じを恐れてアイデアが狭まったりしてたりする面もあるんじゃないだろうか。その表現、ジャンルの先駆者人の作品は、一番純粋で面白いのかも。

ところで、話変わるんだけど、今月はアニメばっかりで映画をあんまり観れてない。インディージョーンズを映画館に行って観たくらいかな。いつか一日中体力の限りを尽くして映画三昧な日を作りたいな。私は小学生の頃からインディー・ジョーンズというキャラクターが大好きなんだけど、今回の映画には、私の好きな俳優のマッツ・ミケルセンも出てた。インディージョーンズは友達といっしょに、公開日とその次の日にもう一回観に行って、感想とかを言い合ってたんだけど、映画を観るときにそのキャラが好きなのか、役者が好きなのかで少し見方が変わって来るんだなと思った。私はけっこう、役者として観るのは映画に対して不純な気がしてる。その役者が演じることによってのマーケティング的な要素を排除して映画を鑑賞したい、好きな役者だからという理由で、自分の頭の中での注目度が勝手に上がってしまうのを押さえたいという気持ち。今までなんの気なしに観てきた映画に、以降に好きになった役者が出てたと知ったときに、ちょっと見方が変わってしまってることに気付くみたいな。知らない役者、初めて見る役者だけで進んでく物語にのめり込めるってすごいことだと思ってる。それだけ話が面白い、上手い映画なんだと思う。上手いか上手くないかを判断するときに、好きな役者として登場人物を観てしまうとノイズが入る。「この話は面白い、ぐっときた」なのか「この役者の演技だからこの作品はすばらしい」なのかよくわからなくなる。それはそんなに悪いことじゃないのかもしれないけど、なんとなく不純な気がする。

最近、YouTubeやネトフリばかり観てる状況に少し不安を覚えつつある。実質無料で楽しめるコンテンツというのはお得で素晴らしいものだとは思うけれど、有料である作品にはそれなりに理由がある。何か視聴しようとするとき、「あ、これ有料だ。なら、別のやつにしようかな」という瞬間がある。観たいならお金を払って観るべきなのはわかってるんだ。作品を摂取しようとするなら、それにふさわしい対価を払わなければ得られない。作品の価値なんか誰にも定義できないのは知ってるけど、「観たいな」というのが、私の中の価値の定義なんだからちゃんと払って観ないと。無料で楽しめる作品の中にも素晴らしいものはたくさんあるし、まずはそれを消費したい気持ちになりがちだけど、もっと貪欲に観たいものを正直に観ていけたらな、金に糸目をつけない、ケチケチしない勇気が欲しいなと思う今日この頃だ。私の両親は、私が欲しいと言った本を買ってくれなかったことはなかった。なんなら、本屋に連れて行ってもらった時は、とりあえず商品棚のなかから読みたいのを選んで、一冊は買って帰るっていう感じだった。今思うとすごくありがたくて、最高の教育者だと思った。「手元に本(作品)がある」という状況に身を置けることの重要さがわかってきた。

今日はこれくらいで。サムネ作るのって難しくて奥が深いなぁ。目が滑らないものを目指して研究中です。

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