徒然

日記

最近、なんだか気分が緩やかに下降しているのを感じてて、そのことに関する愚痴でも吐こうかと思っていたけど、先日、昔の友達とディズニーに行って、気分が一時的に良くなったので、悲しいことじゃなくて、幸せなことを書こうと思う。

ベイマックスのハッピーライド

私はディズニーというところに一年に一度くらいしか行かないし、他人に誘われない限り、そこまで頻繁に足を伸ばすタイプではない。

ディズニーランドの比較的新しいアトラクション、ベイマックスがモチーフの、二人乗りの乗り物があるんだけど、そこには独特の文化が発展していた。

コーヒーカップとかとシステムは似てて、一回ごとに短めの音楽が流れ、その間、乗り物が動く。で、その6曲くらいある短めな音楽は、けっこうノリノリになれるタイプのやつで、キャストのお兄さんお姉さんが、手を振って踊っている。乗り物の周りで、別に自分は乗るでもなく、ただ踊っているゲストもいて、夜はさながらクラブのような感じになっている。踊りガチ勢は、キレッキレなやつを踊って、YouTubeとかに上げる。で、その振り付けを真似して誰かが踊り、またアレンジして動画を上げる。

その乗り物だけ謎に文化が発展してるのがちょっと面白かった。

まあ、文化はさておき、初めて乗ったけど乗り物は超楽しかった。遠心力のおかげで思ったよりもGを感じたし、何より、踊りがあるのがいい。さらにノリノリになれる。

乗り物に乗る前、待っているときに思ったのは、みんな幸せそうなこと。誰かが乗り物に乗っているときに音楽が流れて、それを囲んでみんなが踊るわけだから、他のお客さんの顔が他のアトラクションより見える。テンションぶち上げなJKとか、コスプレに命かけてそうなお兄さんお姉さんもいるけど、中には、家族といっしょに来たキッズとか、おばあちゃんとか、障害を持った人とか、いろんな人がいる。

Dオタみたいに、暇さえあれば来る!みたいな人ばかりじゃなくて、ディズニーランドという場所は、必死にお金を貯めて、一生で今日が最後かも、という人も当然遊びに来る。もうこれが最後かも、というお年寄りも、身体が弱い人も来る。

みんなが踊りながら笑顔で乗ってるのを見てたら、なんか無性にそういうことを考えた。下手なダンスで、不細工な顔で笑ってる人を見てちょっと泣きそうになった。その人の笑顔は、どう考えてもその人のその人のための笑顔であって、ちゃんと楽しいから笑顔になれてるんだな、と思った。

普通の生活で作る笑顔って、どれくらい本心かな。私は9割くらい嘘だ。本当に楽しくて、自然に笑いたくなって笑顔になれる瞬間ってどれくらいあるんだろ。ディズニーってガチで夢の国なんだなって、プロなんだなって本当に思った。

なお、曲は中毒性があり、何時間も並んで待ちながら曲を聞き、踊っていると、乗り終わった後もその曲が聞こえるたびに手を振りはじめたくなる。

デザインを見る

今まではあんまり意識してなかったんだけど、ディズニーシーで水上でやってるパレードを遠くから見たとき、初めて、設計した人のすごさみたいなものに気付いた。

パレードをここから見たとき、背景には山があって、綺麗な街並みが見える、とかそういうことを計算して設計したんだろうな、と思った。そりゃそうだろ、と思うかもしれないけど、考えてみてよ。粘土遊びとか砂遊び、ブロック、模型、マイクラとかでもいいけど、何かものを創る時、そこまで細やかな設計をするのってすごい。一つのかわいいパレードの山車を設計しようという能力とはまた違う、大きいスケールでの設計のすごさをしみじみ感じた。

小説を書くとき、私がいつも欲しいな、と思っている能力だから、気付けたのかも。私の視野は狭く、ちまちまとやってしまいがちなんだけど、一つ一つの細部は当然のようにすばらしく、少し引いて全体を眺めたときに美しいように、写真に切り取ったとき、綺麗に見えるように、と考えて大きなものを創るのって大変なんだ。

私の好きな作家で、伊坂幸太郎さんの小説とかは、大きな視野を持って書かれてるものが多い気がする。一つ一つの話は、実は最後まで読むとつながっている、という仕掛けが美しい。

変わんないね

昔の友達、なんて言ったけれど、実は、親しい本当に友達と呼べる人って、あんまり新しい人いないんじゃないかとは思ってる。

久々に会って、「変わったね」とか「変わんないね」とか話してたら、多少、時の流れによる見た目の違いはあれど、私が一番変わってないんじゃないかと思ってしまう。いつまでも子供っぽいな。話題が、高校の時は勉強とか、流行りとか、班活のことだったのに、今はもう就職とか将来の夢だよ。「今、いろいろ忙しくて大変でさ~」みたいな話題が、それぞれ個別のものになっていって、共感性が低くなっているのを感じる。それはもちろん当たり前のことで、植物の枝が伸びたら、根本では近い所に茂っていた葉同士の距離が遠くなるように、至極まっとうなことなんだけど、寂しいよね。

愚痴に共感できない。あのころあんなに近かった会話が、私の中の「どうでもいいこと」に分類されはじめている。

高校の頃、クラスによって多少のレベルの違いはあれど、ほぼおんなじテストを受けて、「テスト、難しかったよね」の会話はよかったけど、今のテストはそれぞれ違うし、難しかろうと、出来なかろうと、全然勉強してなくてさ、の言い訳もどうでもいい。でも、違うことしか話すことはできないのだから、共通のものはもうないんだから、どうでもいいことばっかり話す。

「何問目、どうだった?」「何大学に行くの?」とか、もう聞けない。「将来就きたい職業は?」「勉強したいことは?」とか、聞けない。全然違うし、私の将来にみんなはもう興味も責任もつながりもないんだなぁ。

焦りばっかり。将来に対してあまりに夢がない。私の知らない時間を生きて、それぞれ勝手に頑張っている人たちを見て時々思い知らされる。

電話

幸せな話を書こうと思ってたのに、ちょっと病みぎみの話題を出してしまった。

ディズニーで全力で遊んで、疲れ切って家にヘロヘロになって帰ってきて、充電がバツンと切れるみたいに寝た次の朝、大学で普通に授業があり、普通の土日を過ごした大学の友達とぐだぐだした会話をした。

ディズニーと、友達といっしょにいた時間が楽しすぎた反動で、課題がだるいとか、眠いとかしか話さない大学の友達を、私はいつもよりもいくらか余計にめんどくさく思った。

課題も終わらないし、大学での友達との会話もつまんないし、苦手な先生はいるし、授業もわかんないし、「これを学んだところで将来どうしたいもこうしたいもない」という感情と、「卒業できなきゃ薄暗い貧困生活で最後は一人で首を吊るしかないんだ」という強迫観念に似た恐怖によってやや心が病んでいた。

一人暮らしのマンションに帰ってきても、寝るまでの間ひたすらYouTubeを垂れ流して静けさに抗って、特に食べたいものも料理の意欲もなくてお惣菜ばっかりを美味しくないなと思いながら食べる生活が続いてて、「やばいこのままだと病む」と焦り始めた時、家族から電話がかかってきた。

特に実のある話はしなかったけど、なんか一ミリくらい心が大丈夫になった、気がした。切ってすぐにまた病み状態に戻ったけど。

普段家族から私に滅多に電話はかかってこないし、私もあんまり電話をしない。嫌いなわけでもないけど好きでもないくらいの存在だったけど、なんか私がヘラってる時に、なんにも言ってないのに電話をかけてくるの、エスパーか?と思った。

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