芸術と情報を、コストを払って摂取する
自分で小説を書こうとしてみて、私は、本を読まなくてはならない、と思った。これから本を創ろうとするものが、本を読まなくてどうする。世間を知らなくてどうする。
ということで、他人の創作物に触れよう、情報を得ようとするわけだが、そのとき、どういう媒体を使うべきだろうか。私は特に、お手軽さがネットの文章に対して少し劣る紙の本を読むことが重要だと思う。昨今スマホでも、他人の作品、文章に触れることはできる。でもそれは、芸術、情報の摂取として正しいんだろうか?今ここで議論したいのは、本屋に並ぶ小説や教科書、美術館の絵に対して、なろう系のサイトのネット小説、ピクシブにはびこるイラストとかの芸術や、ブログや知恵袋といったある意味ファーストフードみたいな情報のことだ。
誤解のないように言っておくと、なろう小説は程度が低いとか、知恵袋は信用ならないとかそういうことを言ってるんじゃない。利用してもいいけど、どういうレベルのものを摂取したいかによって利用法を考えることが必要なんじゃないかと思うんだ。今はとにかくすぐにお腹に何か入れたい、栄養とかなくてもいいから甘いものが食べたいというときにファーストフードを食べたり、日本料理というものがいったいどういうものかしっかり味わいたいから高級な料亭に行ったり、などというように使い分けることが重要なんだ。小説を書きたいと思っている私にとっては主に高級料亭のほうに用がある。
編集者、校正者などの目にふれ、いろいろなお金や時間、しかるべき段階を踏んで、紙に印刷され、書店、または図書館に並ぶ文字の列は、ネットにただ存在している文字の列よりいくらか客観的な価値が高いように私は思う。価値の高いものに対して、それ相応の対価を払う、つまり書店でお金を払って購入する、時間をかけて図書館に行ってしかるべき手続きのもとで借りることが必要だと思う。
何か知りたいことがあったとき、ネットの知恵袋を見れば手っ取り早く解決するかもしれない。最近はすぐに他人に質問することができるようになった。でもそれってどうなんだろう?知識っていうのは、人間がお金か時間か、とにかく何かコストを払って得ているものだ。そんなにお手軽にわかってもいいのかな。親切に知識を分けてくれる人もいるだろうけど、その人がコストを払って得たもののすべてをその知恵袋に載せているのかな。きっと違う。その人の持つ知識と同等なものが欲しかったらやはり、知恵袋以外の方法で私もコストを払って知らなくちゃならない。自分のまだ知らない芸出や情報を得ようとしてする読書においては、最低限のコストとして紙の本を手に持ってページをめくって読むことが必要なんじゃないかな、と思っている。
いったん自分で考える、自分で本を読む、自分で体験する。「この小説が気になるけど、あらすじはどうなんだろう、検索してみよう」じゃなくて、「気になるからとにかく本を開いて読んでみよう」のほうが芸術だけじゃなく、知識の摂取としてすべきことだと思う。
正直、私自身、完璧に実践できているとは言えないけれど、こういうマインドで読書をしていきたいなぁと思う。
この記事はオススメじゃない。ファーストフード的な記録だ。私が読んだものを一言ずつ感想を添えてとにかくここに書き残していく。
ロミオとジュリエット
シェークスピア
恋愛をテーマにした古典のなかでも最も有名な演劇。悲劇の雰囲気を持った恋愛の演劇を軸にした話を書きたくて、参考資料として読んだ。400年以上前に書かれたものなのに話の筋、展開が、今でもなかなか超えるものが思いつかないほど無駄なく洗練されて、完璧だと思う。だから古典になっているんだなと感じた。昔読んだときはセリフの言い回しは長ったらしく感じたが、今読んでみると表現の豊かさに驚いた。ただ目の前の人に「あなたは美しい」と伝えるのにこんなに語彙があるなんて。
走れメロス
太宰治
『富岳百景』『懶惰の歌留多』『八十八夜』『畜犬談』『おしゃれ童子』『俗天使』『駈込み訴え』『老ハイデルベルヒ』『走れメロス』『東京八景』
私は太宰治の文の書き方が好きだ。あんまり改行しないけど、すらすら読んでいける。途中で眠たくもあまりなった気がしない。大学にも行かず、日々物を書いたり、ぶらぶらして過ごしていて、そういう自分のことが親や他人に恥ずかしかったり、情けなかったりと思う気持ちの描写でどうしても自分を重ねているのかもしれない。ああ、駄目だ。
私は『富岳百景』が、昔教科書で初めて読んだ時からずっと好きだった。「富士には、月見草が良く似合う」俗世間を心の中で馬鹿にしているのが気に入った。私の斜に構えた性格と中二病に刺さったんだろうが、今読むと、表現の美しさに尊敬する。うまい文章だなあと思う。もちろん私には古典文学のすばらしさなんて見る人から見れば全く理解できていないのだろうけれど。でも好きです。
それでもあなたは回すのか
紙木織々
新潮文庫のお仕事小説。ソシャゲの運営をする会社に就職した主人公が社会に出た様子を書いている。主人公は元々そこまでソシャゲに詳しいというほどでもなく、専門の勉強もしてこなかった。みんなが就職するから自分も受かったところに就職。何か仕事をさせてもらいたいのだけれど、誰も任せてくれない。年下の同僚は長い間の努力と自信を積み重ね、技術もある。無力感と劣等感。
業界に多少の差はあれど、これが未来のお前だと言われるかのようだった。主人公のチームは最後、大きなプロジェクトを成功させる。主人公は次は自分ももっと関わりたいと思って物語は終わる。
社会が怖いよ。就職なんて私にできるのかな。やりたい仕事なんかないよ。やりたくないことやって、技術と熱量が足りなくて無力感。ずっと大学生がいいよ。
夢十夜
夏目漱石
ヨルシカのアルバム、『幻燈』の第二章は『セロ弾きのゴーシュ』、『夢十夜』をモチーフに十枚の絵と十曲の曲によって構成されると知り、改めて『夢十夜』を読んでみた。
第一夜。男は女を百年待ち、ユリが咲いていることで百年が経っていたことを知る。とても短い話なのに、ちゃんと美しい。ショートショートでもいい。何か作品を創り続けよう、と思えたのも、この本を読んでからだ。
第六夜。運慶は木の中に埋まっている仁王を彫り出しているだけだと聞いて、男も木を彫ってみるが、仁王は出てこず、運慶が今日まで生きている理由を知る。ラジオかなんかでn-bunaさんからこの話を聞いてからずっとなんとなく頭にある。創作も、運慶が仁王を彫ることとおんなじなんじゃないか。
華氏451度
レイ・ブラッドベリ
ディストピア系の話。本というものが禁止され、燃やされてしまう世界。読んだきっかけはもちろんヨルシカの『451』という曲を聞いて。
読んでいるとき、なかなかに視線は文字の上を上滑りして、なんども読み直すときがあった。筋はわかった。しばらく時を置いて、またいつか読んでみたらもっとよくわかるかもしれない。
海辺のカフカ
村上春樹
知り合いに勧められて読んでみた。作品を題材とした映画は観たことはあったが、(ドライブマイカー)村上春樹の作品を読むのは初めてで、どんなもんだろう、難しいのかな、と恐る恐る読み始めたが、思ったよりぐいぐい読んでいけた。
読書中、ずっと低空飛行なのに、高度が上がったり下がったりすることなく、淡々とスピードも緩めずに飛んでいくような気がした。最後にふっと終わって静かに地面に足がついて私は考える。謎を謎のまま終わらせていくスタイルは、なるほど、これはハマる人もいるな、と思った。
ムシカ 鎮虫歌
井上真偽
井上真偽さんは『探偵が早すぎる』『その可能性はすでに考えた』でのめりこみ、ファンになった。『ムシカ 鎮虫歌』はこれらより前に書かれたものだそうだ。SFパニックホラーみたいな感じで、ファンタジー感もあり、推理小説ではなかった。ちょっとB級映画みを感じた。私は推理小説のほうが好きだなぁ。
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