6月9日に実写版リトルマーメイドが日本で公開されましたね。友達がアニメ版のリトルマーメイドの大ファンで、その影響もあり、まずは私が観てどんなもんか確かめてみようと思い、公開初日に映画館に足を運びました。今回は、私がこの映画を観た感想をそのまま書いていこうと思います。この記事は別に人種差別を肯定も否定もしないし、ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)について特定の意見を押し付けるものじゃないから、あまり本気にせず、私という個人の一意見として見て行ってくれたらと思います。
観る前の印象
映画を観る前の、予告編などの映像からの印象は、「なんかイメージと違うな」でした。Twitterなどで、「原作へのリスペクトが足らない」「白い肌赤髪ストレートのアリエルが観たかったのに」「大人の事情が透けて不快」という批判的意見や、「歌が上手い。まさにアリエルそのもの」「黒人の女の子も夢が持てて良い」「映像がきれい」という肯定的意見もあり、炎上していたのは知っていた。まあ、とにかく実際見てみないと何とも言えない。
アニメ版のアリエルの大ファンな友達は正直予告を見て、あまりはっきりは言わなかったけれど、明らかにしょんぼりしていた。好きな作品だから、好きなキャラクターであったからこそ、イメージと違う作品が作られたことがショックだったみたいだ。
観た感想(キャラについて)
公開初日なだけあって、映画館は満席だった。大人も多かったが、キッズもまあまあいた。
まず登場した蟹、セバスチャンはアニメのイメージとは似ても似つかなかった。アニメだとザリガニというかロブスターみたいな感じだけど、完全に猿蟹合戦の蟹だね。その見た目が観ていくうちになじんで素直に受け入れられるのかと思ったけど、最後まであまりスッとは受け入れられるようにはならなかった。
石鯛のフランダーは、かなり薄くて、黄色と水色で、かわいらしく話したり泳いだりするというアニメのイメージとは全然違った。「見ている人が思わず好きになっちゃうような魅力的な登場人物」ではなくて、「ストーリーを円滑に進めるために登場したしゃべる魚」という感じがした。少なくとも私は可愛い魚だな、とは思わなかった。
肝心のアリエルだけど、女優はきれいな人を使ってるなとは認める。黒人の美人だし、声も美しく、歌も上手い。アンダーザシーはその美しい歌声にほれぼれした。しかし、映画が終わるまでアリエルだとは認識できなかった。彼女が自室の穴で歌う時も、岩に乗り上げて背後に波しぶきの立つ有名なシーンも、網膜は彼女を映してるんだけど、脳内で必死にアニメのアリエルに変換して無理に感動しようとしている自分に気付いてしまった。ちょっと待てよ、観客の脳に変換を求めるのって映像作品として良くないんじゃないか?と思った。
トリトンはイメージどおりだった。
アースラもイメージ通りだった。人間に変身したとき美人だった。
アリエルの姉たちは、完全に肌に色が遺伝で説明できる範疇を超えていた。完全に人種が違う。え、みんなトリトンがお父さんなんだよね?トリトンは七つの海で、文字通り七人の女を股にかけたってこと?(センシティブですみません)。実写と言えどもディズニーで生々しい一夫多妻制はあまり見なかったからちょっと驚きだったかな。
ポリゴンショック
あと、観ていて印象に残ったのは、強く激しい光による演出があったこと。昔、ポケモンのテレビアニメを見ていた子供たちがその強い光の刺激によってひきつけを起こし、痙攣したり意識を失ったりする、ポリゴンショックという事件があった。それを引き起こしかねない強い光の演出があって、平気な人は大丈夫なんだろうけど、私はなかなかそれがきつくて、その技法が使われているシーンはずっと目を瞑っていた。
強い光のシーンは主に嵐の海面の様子を映すシーンなのだが、作中を通して二回あって、二回目は特に、クライマックスの見せ場のバトルだったので、まともにスクリーンを観ることができずに残念だった。自宅のパソコンの明るさを下げてなら視聴できたかもしれないけど、映画館では目を瞑って耐えることしかできなかったな。
キャスティング
ハリー・ベイリーさんの歌が素晴らしいのはわかる。
インタビューを読むと、監督はその声に惚れこんで彼女の起用をしたと書いてあった。
アリエルというキャラクターのキャスティングにおいて重要な点は、私は以下の二点にあると考える。
①白い肌で赤く長いストレートヘアの、スタイルのいい若い女の子であること(見た目)
②アースラを嫉妬させるほどの美しい声を持ち、歌が上手いこと(内面)
監督は①の一部を無視してまで、迷いなく②の条件を優先した。「その決定にはポリコレについての作為や圧力があったんじゃないの」とかは、今はここでは騒がず、ひとまず監督の言うことをそのまま受け入れたということで話を進めて行こうと思う。
これは二次創作なのかも
さて、②を優先した監督だが、①を完全に無視するようなことになってしまった。黒人を起用したことにより、舞台はヨーロッパの海ではなく、たぶんカリブ海あたりの熱帯に変わることとなった。
原作へのリスペクトという話にもつながるかもしれないが、ドラゴンフルーツのある熱帯の市場でアリエルが麦わら帽子をエリックにかぶらせるところはもうさすがに、「ああ、これはアニメのリトルマーメイドを忠実に実写化しようとした作品ではないんだな」と悟った。これは、アニメのリトルマーメイドに似てはいるけれど、別の世界線の、まったく別の、アニメのリトルマーメイドをもとにして作った二次創作(アンデルセン小説が一次なら実写版は三次ということになるのかな)みたいなものなのかも、と思った。
そう考えれば、キャラクターやキャスティングについての違和感はすべて説明できるし、これ以上、「イメージを壊した」などと叫ぶのは無粋だ。
「役」と「役者」 どっちを重んじてるの?
この実写版がアニメ版に似せたまったく新しい二次創作なのだとしたら、あえてアニメに寄せなかった理由をまっさらな気持ちで問いたい。
どうして黒人バージョンのアリエルをこの世に生み出したいと思ったんですか?
監督のインタビューによると、いろんな見た目の人がプリンセスという「役」と演じることによって、解釈を増やすことができる、というようなことを言っていた。なるほど監督は、映画に必要なのは「役」(人柄、内面)であって、「役者」(見た目)ではないとおっしゃいたいのですか。別に否定はしないけど、「どんな見た目をしていても、その人格がアリエルならアリエルとして認めようね」という考え方を持った人なのですか。
でも、それって矛盾をはらんでると思いませんか。見た目が本質ではないからそのアピールのために黒人を起用したんでしょ。でも、その目的について、「アリエルを見た黒人の女の子に希望を持ってもらえるために」と言っちゃうのはよくないよ。女の子たちに役者を(黒人として)意識してほしいって言ってるようなものだよ。
差別ってなんだ
完成したこの映画は、「どんな見た目をしていても、その人格がアリエルならアリエルとして認めようね」という監督の思想というか、考え方がにじみ出るような映画になったわけだけれども、この映画について批評や賞賛する人の意見を見て行く中で私がちょっとおかしいなと思うことが一つある。
この映画について強い言葉で「私には合わなかった」と言ういわゆる批判的な立場の人の発言にたいして、「アリエルとして認めろ!認められないのはお前が悪い!お前は差別的だ!」とかみつく肯定的な立場の人間をなかなか多く見かけたことだ。
「私にとってアリエルとは、①白い肌で赤く長いストレートヘアの、スタイルのいい若い女の子であること が必要条件なんだ」という人を差別的だと表現する人たちよ。あんたらのその発言もまた、差別じゃないのか?批判派の意見を駄目なものだと一方的に決めつけて差別してないか?
逆も然りだ。「この映画は素晴らしかった」という肯定派に「見た目を軽んじるなんて原作へのリスペクトが足らない!イメージを壊すなんて最低だ」と言うのも、考え方への一方的な否定、自分以外の意見をすべて見下した差別なんじゃないか?
肯定派の人はアリエルの内面を重んじる監督の考え方に共感し、見た目にこだわる批判派を糾弾している。結局、芸術の表現として「①見た目」を重んじたいか、「②内面」を重んじたいかの趣味の違いについて言いあっている。「顔が良ければ性格は多少アレでも許容」か、「ブスかなんか関係ない、大事なのは中身」なのか、そういうのに類する趣味について。声を大きくした方が勝つみたいな、相手の意見をねじ伏せて自分の思想を押し付けていくような、そういう最近の社会の風潮がなんかおかしいように思えるんだ。
差別ってなんだ?
「お前の肌はアリエルみたいに白くなくて黒いからお前はアリエルにはなれない」「お前の歌はアリエルみたいにきれいじゃなくて汚いからお前はアリエルになれない」これはどっちが差別だ?それともどっちも差別なのか?それともどちらか一つは「区別」なのか?あるいは両方区別なのか?
時代に合わせた解釈の変容
「人魚姫」という作品はアンデルセンによって1837年に書かれたわけだけれど、その後、1989年、ディズニーがハッピーエンドにエンディングを変えて、「人魚姫」を参考にアニメの「リトルマーメイド」を制作した。その後、2023年、アニメ版「リトルマーメイド」を参考に、実写版「リトルマーメイド」が作られた。
同じ物語も、時代によって解釈のされかたが変容し、少しずつ姿を変えていくのは、長く親しまれているからこそ仕方がないことなのかもしれない。
今回の実写化によってここまで人々が賛否両論争ったのは、実写版リトルマーメイドに対して、「昔の作品の保存」を期待しすぎたせいなのかもしれない。「美女と野獣」「アラジン」なんかの実写化はその方針をとった。最新の技術で、白黒写真に当時の色彩をつけるような。しかし、リトルマーメイドの監督が作ったのは、「新たな解釈を加えた、時代に合わせた変容」だった。期待とのそのギャップが、論争の一つの原因なんじゃないかと思う。
時代に合わせた変容とは、要はポリコレとか言われてるものだ。どうやら最近、映画界では黒人の役者を起用することが注目の秘訣だというかのような風潮があるみたいだ。もちろん、商業でやってるんだからみんなに注目してほしいし、いっぱい見に来てもらってお金を稼ぎたいに決まってる。そういう制作側の大人な事情が、やがて圧力や自己満足となり、それを観る観客に「一昔前の、こんな風潮がなかったころの映画に出てきた大好きだったキャラクターを、ストーリーを、大人の事情の消費に使われたんだ」ということを感じさせてしまう。そのキャラクターの容姿のファンだった人にとって、自分の好きなものを、大人の事情を叶える道具にされてしまったのだというイメージを与えられるのはつらいだろう。「最近のディズニーはポリコレに憑りつかれている」という批判が起こるのも無理ないように思える。
この実写はアニメ版との違いを、アニメ版とアンデルセン小説ほど出さなかった。観客は同じものと認識し、ああ、この映画は「作品の保存」をする映画なんだなとそっち方面の期待値を上げる。初めからこの実写はアニメとは別のものです、アニメ版の二次創作です、大人の事情や時代の流れを反映した新しい映画ですと打ち出していれば、観客の期待値は今日のようにあらぬ方向に伸び、そしてへし折られることもなかったのかもしれない。
「作品の保存」は、古いものに上書きする性質がある。写真に色をつけるように。作品が時代とともに変わっていくことはしょうがないが、「時代に合わせた変容」として作品を創るときは、古いものは古いもので独立してあり続けることが必要なんじゃないかと思うんだ。全く別のものに上書きするんじゃなくて、新しいものは新しいもの、古いものは古いものであり続けないといけないと思うんだ。アニメ版リトルマーメイドが出たとき、アンデルセンの小説は世界から忘れられ、図書館から消えたか?消えなかった。アンデルセンはアンデルセン、リトルマーメイドはリトルマーメイドでそれぞれ独立した。
実写版はアニメ版を上書きしようかという雰囲気を醸したのがいけないんだ。こんなに違うなら、ちゃんと独立すべきだったんだ。「美女と野獣」はみんなが認める完璧な上書きだった。だけど、この「リトルマーメイド」は違うだろ。新しい時代にたいして果敢に挑戦してる、この時代の立派な一つの作品だ。
最後に
ここまでいろいろ考えてみて、私はまだ、アニメ版のアリエルの大ファンの友達にこの作品を勧めていいものか決めかねている。
ただ、この作品は、世界で大きな話題を呼び起こした。時代に合った、新しい表現の試みを見物しておくという意味で、一度観に行ってみるといいんじゃないかな。
ここまで読んでくれてありがとう。おやすみ。
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